“ちょうどいい距離”のむずかしさと不器用な温かさが、じんわり心に染みるドラマ。
『0.5の男』、面白かったです。
以前、primeでやってた「ゴーイング マイ ホーム」が何回も見るぐらいすごく好きだったのだけど、なんとなく同じような空気感を感じる作品でした。
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「0.5の男」(prime video)
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ごりごりにネタバレありなので、ご注意を!
「ちょうどいい距離感」の優しさがしみる(いちばんむずかしい距離感)

不器用さんたちの不器用な優しさに、愛しさがこみあげる・・・
『0.5の男』を見た感想は、一言で言えば、いちばんむずかしい「ちょうどいい距離感」の優しさがしみるドラマ。
直接的な言葉や行動ではなく、“半歩引いたところからの思いやり”が、じんわりと心に残る。
印象的だったのは、登場人物同士の、どこかぎこちない距離感の空気。
たとえば、コンビニの店員さんとの会話には、妙にコミカルな間なんだけどそれでいて、後半、居心地のいい間に感じる。店員さんが外国人という設定だからか、言葉のカタコトさが、もしかしたらちょうどいい距離感を生み出すのかもしれないなと。踏み込みすぎちょっと0.5歩の間がある距離感がなんだかほっとする。言葉が流暢じゃないからこそ、できる余白なのだろうか。
また、Q太郎と恵麻の関係も、ここがテーマなんだろうけど絶妙で。
同居家族という物理的な“近さ”がありながら、むずかしい関係性。その距離感のある関係性を、チャットやポストイットの「間接的な」方法を使ってやりとりが育まれていくのがいい。

ジブリ作品で、たしか宮崎監督の言葉で。
魔女の宅急便とか、少年少女が自立や成長をしていく過程には「両親や家族ではない同性の年上」という存在がもつ役割が大きい、と言ってたのが印象的でずっと記憶に残ってる。
女子中学生の恵麻にとってのその存在は、ゲームという緩衝材を挟んだちょっと年上の関係(でももはや同性にこだわらずニュートラルな存在)というのが、もはや昔と少し変化したニュートラルなジェンダー観な感じがしてちょっと新鮮だった。
あと、Q太郎の行動には、彼の母親(風吹ジュン)がかつて彼にしてくれたことでもある。
あのポストイットのやりとりは、人にかけてあげられる愛情というのは自分が受けた愛情であるということがすごく感じられた。
恵麻がQ太郎に声をかけるシーンでも、それが感じられて。それは、その人にかけてあげたいという言葉であり、と同時に「自分がその言葉に救われた」という感謝のアンサーでもあるんだなと。
本筋ではないのだけど個人的にぐっときた好きなシーンは、恵麻が、公園でQ太郎を“捕獲しようとする”動作。恵麻が出口で不器用に通せんぼするところが不器用さが出てて。でもそれが、他人にどう見られるか構わず、まっすぐ目の前のことだけに向き合ってる感じが出てて。不器用でぎこちない動作は、まわりの目を気にするコントロールが効いてないほど、必死でまっすぐで内面がストレートに表現されている瞬間、という感じがして好きなんだなと。
あとこれは作品のテーマとはたぶん関係ない点で印象的だったのが「ダンスの授業」。
体力づくり・運動週間とかにはなるのかもしれないけれど、単純に、あのK−POP的なダンスが踊れるようになることが、子どもの成長の何に繋がるのか、と、ダンスの授業が必修になった今の教育制度に、ちょっと疑問に思ってしまった。まあ、これは自分の運動神経へのコンプレックスもあるけれど、やはりいまだ「ダンスの授業が必修」ということへの理解がおよばず。。。
『0.5の男』は、静かにあたたかく物語を摂取できる作品。
最初、まだ距離があるときの恵麻が、反発したりするのではなく愛想笑いの慇懃無礼さで一定の距離を取る、というのがこれも今どき感を感じた。
恵麻たちの両親だったり、近所のおうちの家族問題だったり、両親だったり。それぞれが傷つきやすく、それぞれが不器用で、それぞれが優しい。そんな感じのドラマでした。

お父さんもなんだかんだ不器用。
酒蔵ドライブのシーンも、ほっこりよかった。